イエス or ノーの2択をつきつける質問に「ノー」と言いたい

心底くだらないことにエネルギーを浪費しているな、と自覚しながらこの記事を書いている。

おそらくほとんどの人には全くもってどうでもいいことだと思う(私だってどうでもいい)のだが、国会議員というとても立派な職業についている人たちが世の中には存在する。ごくごく少数の選ばれた日本人しかこの栄誉ある職に就くことはできず、そして会社員と違って任期があり、しかも衆議院議員の場合は任期途中でも突然「落選」という2文字でいきなり職を放り出されたりする、非常に苦労のある職業だ。彼らはこの時期、永田町の国会議事堂であれこれの法案や予算案や時にはそれらと全く関係ないことについて審議し、質問し、答弁し、この国の行く末をよりよいものにしようという素晴らしい努力を重ねている。

そしてこの国の未来を憂う人々は、国会で日々交わされる論戦の一部をニュースなり国会中継なりで耳にして、批判だったり称賛だったり、外野からあれこれとものを言ってその「観戦」を楽しんでいる。そういう人はTwitterで簡単に見つけることができるが、だいたいは自らの政治的主張、あるいは怒りや悲しみなどの感情に同調してくれる議員を支持し、それらを否定する議員を攻撃して元気に過ごしている。

その審議について色々言いたいこと――たとえば日本人の労働環境を悪化させまいと「たたかって」いる議員が質問を締切よりもずっとあとに出すせいで、官僚が深夜まで答弁を書かされていることとか――はあるのだけれど、とりあえずそれはおいておく。

その質問において、「イエスかノーかでお答えください」という手法を使う議員がいる。ひとりではなく、複数(試しに国会議事録の検索システムで「イエス ノー お答え」で検索したらここ5年間で199件ヒットした)。私が目にしたものはその全てが野党議員によるものだが、今の与党の議員も下野していた時代は使っていたのかもしれない。面倒なのでそこまで詳しく調べる気はない。

これが実にくだらないな、と苛立ったので、わたしはこの記事を書くことでそれを発散しようとしている。なぜくだらないのか、あるいはばかげているのか? ひと口で言ってしまえば、「イエスかノーかで答えることは聞き手に推測の余地――それもただの余地ではない、危険な余地だ――を生むから」。

これは全く自明なことだと思うのだが、念のため以下に説明を書いておく。

最初にことわっておくが、私は野党を批判するためにこの記事を書いているのではない(こう書いてもなお、私がこの記事で批判の矛先を向ける政治家の所属する党を攻撃したいのだと勘違いする人は一定数いるのだろう)。単にこういうことにばかばかしさを感じました、ということを書いているだけで、そこに一切の政治的カラーは関わっていない。上に書いたように与党でもこの手法を使ったことのある議員はいるかもしれない。この記事は個々の政治家への呆れを表明しているのであって、政治的には中立だと私は思っている。

とりあえずこの手法を用いる側の手口を書いておく。まず、彼ら(の代表者=議員)は上のように、すなわち「あなたは○○したんですか? イエスかノーでお答えください」と2択を突き付ける。内閣とか大臣とかまたは次官でも、政治を現在担っている側は質問されたらとにかく答えなければならない。彼らはこう答える――「えー、それについてはですね、まず△△ということがございましてですね、これにより、□□というものが発生するわけでございます。ですから……(以下略)」。そしてそれに対し質問した側は、「なぜ私が言った通りイエスかノーで答えないのか!」と憤慨し、「簡単なことだろう!」と批判し、よく嘲笑する。この嘲笑は私がTwitter上で目にしたもの、すなわち有権者のものだが、もしかしたら質問した議員本人も持っているかもしれない。こうして人々は「やっぱり(回答者)は間違っている。まともな受け答えもできない、まったく資質のない奴らだ」という自分自身の主張が肯定されたことに満足し、それをますます「正しい」ものとしてさらに強化していく。

そして最後に私がこれを目にして、ああ、またやってるな、と馬鹿馬鹿しさにかられ、本来療養に費やすべきエネルギーを浪費する。私は本当にTwitterを使うべきではないと思う。この登場人物のなかで最も愚かな人間は間違いなく私だ。

話が逸れた。

私は訊きたい。「あなた(の代弁者)が政権を奪ったとき、もし同じような質問をされたら『イエス』か『ノー』の一言で済ませられるのか? つまり、あなた方が相手に求めていることをあなた方自身は実践できるのか?」と。

分かりにくいので例を出そうと思う。最初からこうしておけばよかった。実はいま、加計学園というひとつの学校法人に関連して首相に疑惑の目を向ける人たちがいる。簡単に説明すると、加計学園が運営する某大学はこのたび数十年認められていなかった獣医学部の新設を認可されたのだが、この学園の学長だか理事長だかが首相の友人だった。そのため、首相がこのお友達のために認可への便宜を図ったのではないか? そうであるなら、これは職権の濫用で、全く許し難いことではないか? という風に問題視されているのだ。

この問題に対して立場を表明することはしない。論点がぶれるし、私が意図しなくてもこの記事を見る目が変わってしまうからだ。

私が取り上げるのは次の関連事項だ:実は全国の獣医師を束ねる日本獣医師会は、獣医学部の新設に強固に反対していた。「獣医学を教える教授は不足しているが、逆に獣医師は余っている。ゆえに獣医学部を作っても満足のいく獣医学教育を提供できないだけでなく、獣医師余りを加速させる」――理由はこんなところだ。この主張の是非も置いておく。

さて、いまの野党のK党の党首であるT氏という議員がいる(念のために仮名にしておく)。このT氏というかK党は加計学園問題を厳しく追及している。今の政権は嫌う人には激しく嫌われていて、T議員もたぶんその例に漏れない。

ここで問題が起こる。

『T議員、以下の質問にイエスかノーでお答えいただきたい。

「あなたは日本獣医師会から献金を受けたか?」』

ちなみに事実として、T氏は日本獣医師会から献金を受けている(重ねて申し上げるが私はこれに対していかなる意見も表明しない)。T氏はひとこと、「イエスであります、議長」とだけ言い、席に着くことができるだろうか?

私はできないと思う。なぜならそんなことをすれば「T氏はカネのために問題を作り上げて追及する、汚い政治家だ」という不名誉な解釈を一部の有権者に為されることは必至だからだ。

このあまりに短い質問文は、これを聞く者全員に詳細を解釈する余地を生んでしまう。「問題に関係する利益団体から献金を受けた」ということと「問題を一議員として追及する」ということは本来は別々に語られるべきことだが、このふたつが繋ぎ合わされて「献金を受けたから追及した」というストーリーが聞き手の脳内で作り出されることは非常に容易い。

これが「イエス/ノー質問」の最大の問題だ。一言で答えてしまえばその仔細は聞き手に委ねられ、時としてそれは回答者に非常に不利に働く。このケースで言えば、質問者の要求通りにイエスかノーで答えた場合、T議員は自らの印象を左右する「なぜこの問題を追及しているのか」について語る機会を与えられない。この短い質問とこれまでの事実から勝手に連想され、組み合わされて出来上がったものを有権者は保持するだろう。

おそらく高確率で、T議員はこのように回答をはじめるだろう――「そもそも献金というものはどの政治家も受けているものであって、私が特別ということはありません。すなわち、今この質問をされた先生方も同じように献金をどこかからされているのであります。ですから……」。これを流暢に言えるとは限らず、間に「えー」とか「あー」とかを挟むかもしれない(それを文字に起こすと、なんだかしどろもどろになっているような印象を受ける)。

T氏は、おそらく「はい、それはイエスです。ただし……」という答え方をしない。それどころか、回答の中に「イエス」という単語を入れることすらも避けたがるだろう。なぜならその部分だけが切り取られ、報道で、あるいは今ならばSNSで、自身に不利な解釈が為されるように拡散される可能性があるからだ。

現在この質問手法を使っている議員たちは、このこと――つまり相手が殆ど確実に質問の要求に応えないこと、そして一見するとそれが卑怯に見えるということ――を分かったうえで、なおこれを利用しているのだろうか? だとするなら、本当に卑怯なのはどちらであるのか?

ああ、この形式の質問を使う人々、そしてそれに眉をひそめず、それどころか「二択という簡単な質問にすら答えられないなんて!」と嘲笑する人々がこの世に存在し、私と同じ重みの一票を持っているという事実が全く持ってやるせない。それともこの私の論理に何か間違いがあるのだろうか、きっとそうなのだろう、そうに違いない。どんな人間――国語ができない人間、デマゴーグに踊らされる人間、そして自らの正しさを絶対として疑わない人間――も票の上では平等という民主主義自体にユートピア思想の片鱗を感じとり、そこから距離を置くという選択。それを選ぶ私はきっと「冷笑系」と呼ばれる人種で、この国をよくしようという熱意のない、ひどく無気力でゆえに無価値な人間なのだと。そして私がくだらなさを感じている人々こそが真の「人間」と呼ばれるべきものなのだと、そう主張したい。

アウトプットしても何も起こらない。この記事を最後まで読む人間はインターネットの海で見かけたひとつの記事で自らの思想信条を改められる人間だからだ。そしてそんな人間は最初からこんな手法を使わないし、これに利用されることもない。

この最後の命題も、一つの記事を読み終えたという特殊な行為からそれをなした人間の一般的な人間性にまで踏み込んだ結論を出しているという点で、明らかに飛躍している。

また心底くだらないことにエネルギーを浪費してしまった。「この記事がひどい! 大賞」があったら自分で最大まで投票したい。